2011年10月05日
座右の銘 7座右
久しぶりに雨が降りました。
いつの間にやら気温が下がっていて、一気に秋らしくなりましたが
皆さんは体調崩していないでしょうか?
ちなみにワタクシめは崩しておりませぬ。
どうでも良いですか、そうですか。
では、泡盛も回ってきたので、
本日の座右の銘いってみましょう。↓
人生は石材なり。
これに神の姿を彫刻するも悪魔の姿を彫刻するも、
各人の自由なり。
スペンサー
人生を色々なたとえで教えてくれるものは多いですが
まさしく、人生とはその人生を歩む人間が
少しずつ、または一気に勢いよく、
彫刻を彫るように創り上げる、芸術作品なのだと。
ワタクシめは絵心も無ければ、いわゆる美術の感性に乏しい人間ですけれども
本当に胸を打つ作品(絵でも彫刻や建造物、または自然そのもの)に出会えば
心打たれることゼロではありませぬ。
いや、普通に感動することもありますし。
ちょっとそれますが、
人間は誰しも心に鏡を持っていると思います。
それは自分で見ることはできず、人の持っている鏡からの反射で
しか見ることは叶わない。
そのとき、自分の姿が悪魔に映っているのか、はたまた神や天使に写るのか。
そして、それはその人生の作者には最も見えにくく
しかし、周囲の人間(他の生物にも然り)には本当によく映る。
自分には見えないからこそ、「こうなりたい」とか「こうしたい」とか
色々試行錯誤したり、自分の行いを改善・修正したりするんではないでしょうか。
そしてこの自分には良く見えないところが、作品を作る上で
非常に良いのではないでしょうか。
ゴールが分かれば、人間無駄に多くの努力をしないもの。
しかし、人生を過ごす上で
このやりすぎる事が意外と大事であります。
予測できる馬鹿はただの馬鹿ですが、人の予測を超える「大馬鹿者」は
ある時、「天才」と昇華する気がしてなりません。
人生は一度きりで、自分の人生は常に自分でしか歩くことはできない。
他人と同じような人生も素晴らしいですけど、
他人には真似できない様な人生も憧れる。
どちらに転んでも、これらとはぜんぜん違う人生になったとしても
その瞬間瞬間に、自分が判断した結果を積み重ねるのが
生きている、って事なんだろう。
いつの間にやら気温が下がっていて、一気に秋らしくなりましたが
皆さんは体調崩していないでしょうか?
ちなみにワタクシめは崩しておりませぬ。
どうでも良いですか、そうですか。
では、泡盛も回ってきたので、
本日の座右の銘いってみましょう。↓
人生は石材なり。
これに神の姿を彫刻するも悪魔の姿を彫刻するも、
各人の自由なり。
スペンサー
人生を色々なたとえで教えてくれるものは多いですが
まさしく、人生とはその人生を歩む人間が
少しずつ、または一気に勢いよく、
彫刻を彫るように創り上げる、芸術作品なのだと。
ワタクシめは絵心も無ければ、いわゆる美術の感性に乏しい人間ですけれども
本当に胸を打つ作品(絵でも彫刻や建造物、または自然そのもの)に出会えば
心打たれることゼロではありませぬ。
いや、普通に感動することもありますし。
ちょっとそれますが、
人間は誰しも心に鏡を持っていると思います。
それは自分で見ることはできず、人の持っている鏡からの反射で
しか見ることは叶わない。
そのとき、自分の姿が悪魔に映っているのか、はたまた神や天使に写るのか。
そして、それはその人生の作者には最も見えにくく
しかし、周囲の人間(他の生物にも然り)には本当によく映る。
自分には見えないからこそ、「こうなりたい」とか「こうしたい」とか
色々試行錯誤したり、自分の行いを改善・修正したりするんではないでしょうか。
そしてこの自分には良く見えないところが、作品を作る上で
非常に良いのではないでしょうか。
ゴールが分かれば、人間無駄に多くの努力をしないもの。
しかし、人生を過ごす上で
このやりすぎる事が意外と大事であります。
予測できる馬鹿はただの馬鹿ですが、人の予測を超える「大馬鹿者」は
ある時、「天才」と昇華する気がしてなりません。
人生は一度きりで、自分の人生は常に自分でしか歩くことはできない。
他人と同じような人生も素晴らしいですけど、
他人には真似できない様な人生も憧れる。
どちらに転んでも、これらとはぜんぜん違う人生になったとしても
その瞬間瞬間に、自分が判断した結果を積み重ねるのが
生きている、って事なんだろう。
Posted by メタルゴ at 23:56│Comments(0)
│ことわざ